マイスター制度 と マイスター試験


 マイスター制度は 手作業による仕事(Handwerk【注1】)の伝統を維持し、そのレベルを保持し、後継者を育てるための制度である。 仕事のレベルを維持することを目指しているとは言え、私は、特別に高度なレベルを目指していると思わない。
    『ある程度のレベルを達成していることのあかし』
程度に理解したほうが良いであろう。 しかし、ヨーロッパには日本とは比較にならないほど充実した職業教育制度があり、その根幹をなしているのがマイスター制度である。

しばしば「名人位」のように理解されている面があるが、決してそのようなことはない。 試験そのものは、受験戦争を知っている日本人にとっては楽な内容である。 少なくとも競争試験ではなく、能力の試験である。

厳しさを感じるのはただ一つ 一生に一度 しか受験が許されないことであろう。

何度でも挑戦が許される日本の資格試験とはその真剣さにおいて雲泥の差である。

ちなみに、ドイツでは自動車運転免許試験の受験は 一生に3回までしか許されない。
    「3回も受験して受からない人には適性が無い」
と判断されるのである。

理解しているかは問わずに難しい問いに答えられることに目的があるような日本の試験と比べて、どちらが本質的かは明瞭であろう。


 マイスターであるから良い仕事をするあかしであるとは言えない。 そうでない実例を多く知っているし、自分のことを思い出しても赤面物である。 本当の修業はマイスターになってからと言ってもよいであろう。 マイスターになってそれに安んじていたり、マイスターであることを前面に出すオルガン製作者は信用しない方がよいと思う。

 現在70歳前後のドイツのオルガン製作マイスターの中にはきちんと試験を受けていないマイスターもいる。
 第二次世界大戦後、米合衆国占領地域では、進駐軍の指示で職業教育制度を廃止した。 その結果職業選択に制約がなくなり、だれでもオルガン製作を職業とすることができた。

 ドイツ連邦共和国独立に際して、新生ドイツ政府は再び職業教育制度を取り入れ、マイスター制度も復活した。 しかし、一旦オルガン工房を経営し始めた者から、その生活権を奪うことはできないということで、この期間に職業を独立して営んでいた者にはマイスターの称号を名乗ることを許したのである。
 私がドイツに居た1970年代にはそのようなマイスターの弊害がまだ有った、現在ではそのような人達も現役から退く年齢になり問題は少ないであろう。


 オルガン製作マイスター試験受験資格には、見習(Lehring【注2】)を終了して職人(Geselle)試験に合格後 中断無く5年以上その職業に就いていること が要求される。 したがって、オルガン製作マイスターの場合には計8年半の就業期間が必要となる。 一生の仕事にしようという人間にのみその資格を与えようという意図であろう。

 マイスターの資格は、独立してその職業を営むためには必須の資格である。したがって跡取り息子にとっては必ず通らなければならない関門といえる。

 試験は
    実技試験
    専門理論と知識
    経営および法律に関する知識
    職業・労働教育に関する知識   の4分野について
      筆記、口述、実技 で行なわれる。

 オルガン製作マイスターの場合、試験は2年に一度実施。 受験はドイツ各州で可能であるが、Badenwuertenburg州(州都Stuttgart)のLudwigsburgで行なわれる試験が最も充実しており、権威もある。 ここのマイスター試験準備コースにはドイツ各地からだけでなく、スイス、オーストリアなどヨーロッパの多くの国々からの参加者がある。 私の場合も何の障害も無く受け入れてくれた。 準備コースは必修ではないがその内容は試験の全分野にわたっており、試験の内容やレベルを知る上では非常に役に立った。

 準備コースは全21教科に細分されていた。 簿記、法律知識などはかなり重要科目である。 独立して営業する者が帳簿を付けないなどということは許されないのである。 知らなかったなどということは言い訳にならない制度となっている。 したがって、青色申告に相当する制度は存在しない。

 実習では約束手形を振り出したり、受け取って裏書して人に渡したりなども一通り行う。 離婚の時の財産分配の法律なども含めて覚えなければならない内容はかなりの量にのぼった。 覚えるのは苦手なほうなので、ただただ何回も読み直して立法の精神と論理を理解して頭に入れるようにした思い出がある。

 数学はわれわれ日本人には本当に易しい内容であった。 日本の科学教育のレベルが高いと言われる所以である。  調律の計算に必要な対数計算、そして三角関数、連立方程式などは皆苦労をしていた。 私のところで課外授業をして応援したのもよい思い出である。

教科内容 成績表


 準備コースの途中で受験をあきらめて帰郷した者もいた。 2年あとの試験を目指して勉強をしなおすためである。 一回失敗すれば家業を継ぐことが出来なくなるのであるから彼らは真剣にならざるを得ない。

 私にとってはマイスター試験は絶対に必要というものではなかった。 けじめを付ける為に挑戦してみたというのが正直なところである。 ドイツで就職しようとすれば試験成績表が一生付きまとう世界なので、同期の皆は1点にもこだわっていた。 私は気にしないほうなので、宿題を出さなかったりして成績が落ちた面がある。 宿題を「まだ落第しないから提出しない」 などと言うと先生も同期生たちもびっくりした顔をしていたものである。


 最後の試験科目は実技の一部、一台のオルガンを作ることである。 大きなオルガンの一部を作ることも許される。 私の場合には、スイスのオルガニストがそれを知って14音栓のオルガンを注文してくださった。

 基本設計の案を提出し、承認を受けた上で、図面を作成し、材料一覧表、原価計算表、などを提出する。 原図は試験実施委員会に提出しなければならないので、手元に残るのはコピーだけである。

 製作期間は楽器の大きさによって決められる。 最長1年。 私の場合には比較的大きい (一人で作るオルガンとしては) ので1年の期間ということになった。 他の職業のマイスターで構わないのであるが、マイスターに試験実施委員会への報告を依頼しなければならない。 このマイスターは製作期間中に予告無く製作現場を訪れ、他人の助けを借りずに作業を行なっていたことを証明するのが役目である。
 私の場合には すでに隠居している家具製作マイスター Geiger氏 がその役目を引き受けてくれた。

 工房は幸いにも私が働いていた Albiez工房の隣りに借りることができた。 作業台、小さな機械、手道具などは購入した。 これらの道具類は帰国後使えるものばかりなので可能な限りおしまずに購入した。

 工房での作業が終わり、運送業者に依頼してスイスへ運び現場で組立、整音、調律をした。 その間、注文主であるFeldmann氏の家に泊まっての仕事であった。

 完成後、Stuttgartから試験実施委員が原図を持って来訪、各方面にわたって確認し合格と認められた。 その場で、以降 オルガン製作マイスターと称することを許しますと宣言を受けたのだった。 当日夕に Feldmann氏の演奏で 恩人・友人を招待しての完成披露演奏会を催していただいた。 1977年6月4日 20時30分からであった。

修了作品 成績証明 マイスター証
  


 私が受験した年(1976年)以降、実技試験は一台のオルガンの設計図を作ることと 与えられた課題の制作のみで許されるようになった。 一台のオルガンを作るとなると、かなりの財力かスポンサーを見つけないと出来ないので受験の機会を平等にする目的で新制度が導入されたと聞いている。 実際に1台の楽器を作ったのは私が最後であったようだ。

 与えられる課題は、机の上に載る程度のポルタティフの製作である。 私はこれを作っていないので写真で見ただけである。 最低音1オクターヴがリード管、その次が木製閉管、その次は金属製半閉管、高音部は金属製開管になっているようである。 材料は支給され指示どおりに組み立てていくそうである。 その作業はLudwigsburgの職業学校センターでのみ許される。 キットを組み立てるようで私には少々物足りない感じは否めない。

 自ら設計して製作して、問題にぶつかりながらそれを解決して完成に至るという工程は大切にするべきだと思う。 試験が楽になれば、合格後の修練の壁が厚くなるだけである。


【注1】 工業 商業 に対する職業の分類 手工業とは異なる。 あくまで単品を手作業で生産することを旨とする職業
     125職種に分類される(1975年の資料) 適切な日本語がない

【注2】 実務3と学校1の割合で3年半 中間試験と終了試験に合格しなければならない 毎週レポートの提出が義務

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