宮崎県立芸術劇場オルガン 組立の記録

う ら 話 2


2.商業と楽器工芸 と

 計画中の宮崎県立芸術劇場(当時は仮称であった)にパイプオルガンが入ると知った輸入各社は早速運動を開始したようであった。
私にはまるで興味が無いことであったので何が行われていたのかは知らなかった。
県庁の担当者はいろいろな働きかけを受けていたようであった。

 当時(1989年頃)各地に公共ホールが建設され、オルガンを入れたいという話が次々に舞い込んできた。 見積依頼が多く閉口した記憶がある。 特に東京近郊に建設されるホールからの依頼が多かった。 東京への通勤圏に新たにオルガンを作っても、よほど特徴があるオルガンか、よほど工夫をこらした運用をしなければ都心のホールに聴衆は持ってゆかれることは明らかであろう。 私にとっては興味をそそられるものではなかった。

  一方、宮崎県からの問合せには興味を持った。 宮崎県の周囲を見ても、鹿児島県に極小さなオルガン(ポジティフ)が1台と 非常に質の悪いオルガンが一台、 熊本の教会に一台、福岡の学校に一台、北九州に電気駆動式の楽器が一台だけであった。
音楽ホールには一台もオルガンは入っていない。 当時、大型のオルガンは九州には一台も無かった。 オルガン過疎地に大オルガンを計画できる。
オルガン製作者としては当然オルガンの存在する意味が重いことを感じるし、また意欲も湧かせることになる。

  そんなある日、知らない方から電話を受けた。 声からは老人である。 宮崎一の楽器店であり、日本楽器(ヤマハ)の宮崎代理店の会長であった。

  用件は、「宮崎にオルガンを入れるのであれば当社を通すべし、それについては、見積を当社に送って来い」 ということであった。

  私は 「オルガンはオルガン製作者と施主との直接の交渉をもつべきであり、その間に介在する商行為は受け入れるつもりはない、また今までも商行為に委ねたことは一度たりとない」ことをはっきりと伝えた。 商行為のための費用があるならばオルガンそのものに注ぎ込みたい、介在する商人は何らかの助けになるどころか意思の疎通を妨げるだけであろう。

  「うちを通さずに宮崎にはオルガンは絶対に入れさせない」 とまで言われた。
私は「それで宮崎に私のオルガンが入らなかったらば、残念ながらご縁が無かったことと思います」 と伝えて電話を切った。
商を考える人にとっては私の考え方は理解できないのかもしれないが、真剣に物を作る人間にとっては至極当然なことと私は今も信じている。

  その後も(後に伝え聞いたことではあるが)、県の担当者には色々な方法で働きかけがあったようである。 県会議員を通しての働きかけもあったと後になって聞いた。
「須藤は良い楽器を作るが、なにせ一人の肩にかかっているからあぶない」と何度も担当者は言われたそうである。 輸入業者の説得材料はそれだけであったようだ。

  およそ、その4年後 1993年11月宮崎県立芸術劇場完工の式典が催された。 私も招待を頂いただけではなく、感謝状を贈呈したいので来賓席へ・・ということであった。 私の席の隣は件の楽器店会長、開館に際してピアノを何台か寄付されたとのことで感謝状を呈されるとのことであった。 予め担当者から ご老人故手を貸して差し上げるように依頼を受けていた。 着席し、隣の御老人に挨拶をすると、あちらも私のことを記憶に止めておられたのか、すぐに判り言われた「あなたは正しかった」。

その後、何年かしてその御老人は他界された。
仕事をはじめて以来いくつかの信念は貫き通してきたが、自分はそれでよかったと思っている。 時に信念をゆがめては次にその信念を通すことはできなくなる。 困難になることがあろうとも信ずるところにしたがって進むことが、総合的には良い方向へ向くことであろう。


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